「空白を埋めてから来てください」──面接官は今日も選別している

看護

1.見た目は普通、履歴書には“空白”──さて、どう見るか

今日の応募者、30代後半。
職歴の欄にぽっかり2年間の空白。
「体調を崩して……」と、目を伏せて言った。

俺は頷く。理解ある風を装って。

でも正直に言えば──その時点で「落ちたな」と思っている。

だってそうだろう?
社会は待ってくれない。
2年も3年も“何もしなかった人”に、今さら何ができるって言うんだ。

俺の仕事は、戦力を選ぶことだ。
“事情”に共感して泣くことじゃない。

2.「甘え」「努力不足」──言葉に出さずに、そう判断している

もちろん面と向かっては言わない。
「大変でしたね」「焦らず頑張りましょう」と笑顔で返す。

でも心の中では、「なんでその時期に資格の一つでも取らなかったのか」
「なぜアルバイトすらしなかったのか」
「言い訳だけは一丁前だな」と思っている。

そしてまたひとつ、“リスク要因”として評価シートにチェックをつける。

“再発リスクあり”
“コミュニケーションに不安”
“意欲・体力不明”

これで候補からは外れる。

だってうちは福祉施設じゃない。会社だ。
ここで生き残るのは、“空白がない人”か、“それを隠し通せる人”だけだ。

3.「空白を語れる人は信頼できる」──そんな綺麗事、信じていない

世間では言う。「空白があっても、正直に話してくれた方が信用できる」って。

そんなの嘘だ。

空白を語る人間は、傷ついてる。
傷ついてる人間は、再発する。
再発する人間は、また辞める。

正直に話したところで、それは「ここが地雷です」と自己申告してるようなもんだ。

もちろん、言葉の選び方が上手かったり、ポジティブ変換ができる人もいる。
「自己理解の時間でした」「スキル再構築期間でした」──うまい言い回しだ。

でも正直、それを“うまく言えない人”のほうが多い。

で、そういう人から切られていく。
“説明できない空白”を持つ者は、“語れない過去”を抱えたまま、また落ちる。

4.選別の正義──「普通のフリがうまい人」を選ぶ仕事

俺が選ぶのは、病気にならなかった人じゃない。
“病気でもそう見えない人”だ。
障害があっても、それを感じさせない人。

つまり、“普通のフリ”が上手い人。

面接で泣かない。
目を逸らさない。
曖昧な質問に臨機応変に返せる。
履歴書に空白があっても、きれいに言い換えられる。

それができない人には、たぶん、ここで働くのは無理だ。

合理的配慮?
うちも書類上は整備してるさ。
でも実際は、“配慮がいらない人”を選ぶ方が早い。楽だ。結果が出る。

面接は、演技力の審査会だ。
本音と苦悩を出す場所じゃない。

5.空白の履歴書が捨てられるとき、そこにある命も一緒に捨ててる

応募者が帰ったあと、俺は履歴書をシュレッダーにかける。

その紙の中には、
不眠で病んだ夜や、
薬に頼っても起きられなかった朝や、
「死にたい」と思いながら必死に繋いだ命の時間が詰まっていた。

でも俺の目には、「ブランク2年」の5文字しか映っていなかった。

明日もまた、似たような人が来るだろう。
履歴書のどこかに、ぽっかりと空白を抱えた人が。

そして俺は、また選別する。

「この人、使えそうか?」
「空白は、隠せているか?」
「演技の質は、高いか?」

命の事情なんて、今日もまた、面接室の外に置いてきてもらう。


終わりに:「空白」は、あなたが生き延びた証だったのに

あなたが生きてきた“空白”を、
俺たちは“評価不能”の一言で落とす。

あなたが命を繋いできた日々を、
俺たちは“リスク”として切り捨てる。

これは面接官の仕事だ。
でも、これが社会の正義だなんて、俺自身ですら思っていない。

ただ、それでも俺は明日も、
「空白のない履歴書」を探して、
「壊れたことがないフリ」をした人を選び続ける。

なぜなら、それが一番“採用コストが低い”からだ。

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