「自己責任、甘えるな、努力不足」──それは支援者を黙らせる呪文だった

看護

1.その言葉を口にしたのは、利用者ではなく、支援者だった

「自己責任です」
「甘えすぎなんじゃないかな」
「もう少し努力が必要ですね」

この言葉を最初に口にしたのは、私じゃなかった。
支援を受けている利用者でもなかった。
隣の席にいた、同僚の支援員だった。

利用者が実習を途中でやめたとき、
面接に落ち続けて絶望しているとき、
トラブルを起こしたとき、
職場でうまくいかず早期退職したとき。

そのたびに、支援員たちはつぶやく。
「がんばってる子もいるのに、もったいないよね」
「結局、本人の問題かな」
「そこまで背負えないよね」

その言葉を聞くたびに、私は思う。
私たち自身が、制度の“限界”を、自己責任という言葉で覆い隠していないか?と。


2.制度は用意されていても、“届かない人”がいる

「就労移行支援があるじゃないか」
「合理的配慮も法律に明記された」
「障害者雇用枠が増えている」
「今は支援が充実している」

たしかに、制度はある。
仕組みは整ってきた。
でも、それが“機能している”とは限らない。
制度は“利用できる人”にしか届かない。

遅刻が続いたら、「通所意欲が低い」
メンタルが不安定なら、「安定してからまた来てください」
実習がうまくいかないと、「企業に迷惑がかかるので…」
支援者がよかれと思ってかける言葉が、
本人の内側を、音もなく削っていく。

──その支援は、誰のためのものだったのだろうか。


3.「がんばる気がある人だけ」に偏っていく現場

「頑張ってる人には、応えたい」
これは、支援者の本音だ。
でも気づけば、頑張れる人にばかり時間と資源が割かれていく。

・通所率が高くて素直な人
・自己理解ができている人
・企業対応が可能な“落ち着いた”タイプ
・書類が書けて、発話が安定していて、質問に答えられる人

──それ、もう“就職できる人”なんだよ。

私たちは、制度の中で“成果”を出すことを求められる。
だから、成果が出そうな人を優先する。
それが“合理的”とされる。

でも、目の前にいるのは、成果にならない人たちだ。
支援の時間を確保できない人。
予定を管理できない人。
不安で人と話せない人。
努力の途中で折れてしまう人。

それでも“生きている”ことを、私たちは軽く扱いすぎていないか?


4.貧困とストレスが脳を蝕む現場で、何ができる?

ある利用者が言った。
「何を言われても、頭に入らないんです」
「メモを取っても、読んだときに意味がわからないんです」
「家では横になってスマホを見てるだけです」

鈴木大介氏の『貧困と脳』を読んでから、私はその言葉の意味が変わった。

慢性的なストレスは、脳の前頭前野にダメージを与える。
実行機能が低下し、意欲・判断・記憶・注意が乱れる。
「努力」する以前に、努力するための脳の回路が壊れていく

それは“気合”や“根性”では回復しない。
でも現場では、それを“甘え”とみなしてしまう空気がある。

支援の名のもとに、本人の限界を無視すること。
それが“自立支援”として肯定されていく現場。

私たちは、どこまで本人のせいにして、どこまで制度の矛盾に口をつぐむのか。


5.「甘えるな」という言葉に、先に甘えたのは誰だ?

「本人の意欲次第ですよ」
「甘えずにがんばれば、きっと変わりますよ」
「支援は、活用できる人が得をするんです」

これらの言葉は、実は支援者を守ってくれる。
“変わらなかった責任”を、本人に返してくれる。
私たちは、傷つかなくて済む。
そして静かに、見捨てる。

でも、それでいいのか?

社会が与える貧困とストレスの中で、
脳が蝕まれ、動けなくなり、言葉もなくなり、
それでも生き延びている人たちがいる。

努力できない状態に追い込まれた人を、
“努力不足”と切り捨てるのは誰か。
その言葉に先に甘えてるのは、
支援する側の、私たち自身じゃないか。

にほんブログ村 その他日記ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 大人のADHDへ
にほんブログ村

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村

コメント