「配慮はあるけど、理解はなかった」──合理的“風”配慮で壊れてく俺たちの話

看護

「それくらいなら、配慮で何とかなるでしょ」
そう言われて働き始めた俺は、結局また静かに潰れた。


1|障害者雇用に、希望があると思ってた

健常者として働いて、ボロボロになって、もうだめだってなったときに見つけたのが「障害者雇用」。
これなら、理解がある。配慮してもらえる。働きやすくなる。そう思って、医者と相談して、診断名もらって、手帳もとって、職場に申告した。

最初は、ちょっと安心した。面接でも「無理しないでくださいね」って言われた。勤務時間も短め、残業もなし、電話対応もナシ。
「これが“配慮”ってやつか…」と少しだけ希望を抱いた。
でも現実は、「配慮って、どこまでが本気なんだろう?」って思い知らされる日々の始まりだった。


2|形式上の“配慮”と、現場の“我慢”

たしかに、配慮はある。
でもそれって、「業務マニュアルの中で調整してるだけ」の話だった。

例えば、「集中力が続かない」と言うと、「じゃあ1時間ごとに休憩してね」と返される。でも、実際には「周りが頑張ってる中で抜ける空気じゃない」現場。
「マルチタスクが苦手」と言えば、「じゃあ単純作業で」と言われる。でもその単純作業がひたすら8時間、誰とも会話もなく、フィードバックもなく、孤独に沈んでいく。

配慮はされてる。でも、誰も俺を“理解しよう”とはしていない。
形式的な対応だけが整っていて、中身が追いついてない。
合理的配慮って、そういう意味だったんだって思った。


3|「特別扱い」と「差別」の狭間で

ちょっとでも配慮があると、「特別扱いだよね」と言われる。
でも、配慮がなければ潰れる。どっちに転んでも詰んでる。
同じ仕事してる同僚から、「〇〇さんだけ別メニューってズルいですよね」と陰口が聞こえてくる。
マネージャーからも、「もう少し頑張れると思ってた」と静かに期待を外される。

合理的配慮って、実際には“最低限の生存”をギリギリ確保するための命綱だ。でもその命綱を握った時点で、「普通じゃない」って線が引かれる。
制度としては“平等”を目指してるけど、現場の空気は真逆なんだ。
俺たちは、配慮を受けながらも、心の中では毎日「ごめんなさい」って謝ってる。そんな働き方、希望なんて持てるか?


4|配慮は「あるけど、足りない」。理解は「必要だけど、来ない」

職場に「配慮シート」はあった。でもそこに書かれたのは、「静かな席を用意する」「指示は口頭ではなく紙で」といった定型のメニュー。
俺が本当にしんどいのは、「空気を読む会話」「優先順位の判断」「感情の表現のズレ」といった、見えにくいズレだ。
でも、そういう部分は誰にも伝わらない。伝えても、理解されない。配慮リストにも書けない。

そして、伝えようとすればするほど、「繊細すぎる」と言われる。「そんなの誰だってあるよ」と返される。
いや、誰にでもあるものが、“日常を壊すレベルで積み重なる”から、俺たちは障害なんだよ。
でもその認識が、現場にはまるでない。


5|壊れる音がしても、誰も気づかない

だから俺はまた壊れた。
出勤しても、何もできなくて、周りの目が怖くて、休憩室で泣いて、それでも「明日も頑張ろう」と思ってた。
でもある日、もう立てなくなった。体じゃなくて、心の奥で「終わった」って音がした。

その翌日、「今後についてお話があります」と呼び出された。
「無理はしないでいいですよ」「いつでも相談してください」って言ってた会社の言葉は、全部、建前だった。
俺は“合理的に”雇われ、“合理的に”切り離された。それだけのことだった。


合理的配慮って、何だったんだろう。
配慮は“形”としてあった。
でも“心”としての理解は、最初からなかった。

俺はまた、社会のどこにも属せないまま、今日も部屋の天井を見つめている。
ほんの少し、配慮じゃなくて、“誰かが理解しようとしてくれたら”違ったかもしれない。
……いや、そんなの甘えか。

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