【ASD】「感情が見えない」と言われ、誰からも相談されなくなった

看護

──黙って働いていたら、“人じゃない何か”になっていた


1.「感情が見えないね」と言われ続けた

俺は仕事に感情を持ち込まない。
それは、無感情なのではなく、感情を顔に出すのが苦手なだけだ。

職場では、嬉しくても笑えないし、
怒っていても声を荒げたりできない。
だから、ずっとこう言われてきた。

「何考えてるか分からないよね」
「機嫌悪いのかな?って思っちゃう」
「感情が見えない人って、ちょっと怖いよね」

──どうして“見せない”と“持ってない”は、同じにされるんだ?


2.「聞いても無反応そう」と、相談すら来なくなる

ある日、同僚が言った。

「○○さんには相談しづらくてさ……」
「いつも淡々としてるから、共感してもらえなさそうで」
「機械みたいっていうか」

──俺は、ずっと一人だった。
話しかけられることも少なかったし、
相談を持ちかけられたことなんて、ほとんどなかった。

誤解されたくなくて、
態度に出さないようにしていたら、
“感情がない人”になっていた。

自分の感情を守ろうとしていたら、
他人の感情からも切り離されていた。


3.「共感できない人」とされる恐怖

あるとき、チーム内で誰かが大きな失敗をした。
そのとき、俺は“いつも通り”の反応をした。
──感情を抑えて、状況を整理して、次の行動を考える。

でも周囲は、俺の態度を見て言った。

「ちょっと冷たいんじゃない?」
「○○さん、ああいうときも無表情なんだね」
「人としてどうなんだろう…」

──人として、だと?
“感情を出すこと”が、人間らしさの条件なのか?
じゃあ、出せない人間は、“人じゃない”のか?

ASDの俺は、“共感を示す形式”が分からないだけなのに。


4.感情を出せば“豹変した”と驚かれる地獄

ある日、思い切って笑ってみた。
同僚の冗談に笑顔で返したら、
「うわ、○○さんが笑った!珍しい!」とざわつかれた。

別の日、疲れてちょっと声を荒げたら、
「今日はどうしたの?キャラ変?怖い…」と引かれた。

──つまり、“感情を出しても異物”、“出さなくても異物”。

ASDの俺にとって、感情の表出は苦手な“技術”だ。
だからこそ、訓練して、慎重に言葉を選んで、静かに対応してきた。
でも、それはこの社会では、“壁”と見なされていく。

俺は、どんな表情をしても、間違っているらしい。


5.孤立を選んだのではなく、追い込まれていった

「感情を見せてよ」
「もっと人間らしく接してよ」
「自分を出していいんだよ」

──それは、できない人間への圧力だ。
表に出せない感情もある。
出すことで逆に誤解される痛みもある。
けれど、それは配慮されない。

気づけば、職場で誰も俺に話しかけてこなくなった。
誰も頼ってこない。
俺の存在は、ただの“動く手”であり、“口を閉じた壁”になっていた。

俺は、人間ではなく、機能として扱われていった。


終わりに:「沈黙を選んだら、人間じゃなくなった」

ASDの俺は、無理に笑えない。
急に声を荒げたりもできない。
感情を“演じる”ことが、できない。

でも、それを社会は許さない。
「感情がない人」
「冷たい人」
「関わりにくい人」

そして最後には、
“いない人”になっていく。

──静かな孤立は、言葉よりも重い。
誰にも責められずに、
誰にも必要とされなくなって、
誰にも見られなくなって、
“生きているふりをした、透明な生き物”になっていく。

これが、俺たちの「社会適応」の行き着く先だ。

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