この社会、発達障害者にはハードモードすぎる——不可視のギアが噛み合わないということ
いきなりだが、「みんな違って、みんないい」なんていう都合のいいスローガンが、実際にはどれほど空虚なものかについて考えたい。
いや、もちろんその理想自体を否定するつもりはない。ただ、それが“現実の”生きづらさを抱える人々にとって、どれだけ無力な言葉であるか、という点について、もう少し正直になってみないか? という話だ。
たとえば、発達障害という存在。近年は「発達障害グレーゾーン」や「神経多様性」といった語彙が広まりつつあり、一見すると理解や配慮が進んでいるようにも見える。だが、それは「わかろうとするフリ」が上手くなっただけのような気もしている。
少し具体的に書こう。発達障害を抱える人々は、社会の「当たり前」とされている構造の中で、日々摩擦を起こしている。たとえば時間管理が苦手だったり、マルチタスクができなかったり、相手の曖昧な意図が読み取れなかったりする。それらは“個性”として扱われるにはあまりにも致命的で、あまりにも日常的だ。
こうした違和感や苦手さは、たとえば「電車の時刻表が読めない」とか「電話が極端に苦手」といった具体的なかたちで現れる。周囲からすれば、「そんなの、頑張ればできるでしょ?」とスルーされがちなことだが、問題はそういうスキルを「身につける・慣れる」こと自体が、そもそも脳の特性として困難だということにある。
つまり、「やればできる」は、できる人間の論理だ。
「普通にできること」ができないという罠
人間社会は、暗黙の了解と場の空気で成り立っている。そこには明文化されていないルールが、無数にある。例えば、「会議では発言しすぎず、でも黙りすぎない」「上司のジョークには愛想笑いで応える」「遅刻しないのはもちろん、5分前には着席」——こうした空気の読み合いこそが、“普通の社会性”の正体だ。
だが、発達障害を抱える人々には、この「空気のプロトコル」が読めない。あるいは読めても、即座に適切な行動に落とし込めない。しかも、こうした社会的スキルは「学び直す」ことがきわめて難しい。なぜなら、それは知識の問題ではなく、認知のスタイルそのものに関わるからだ。
ここで重要なのは、苦手の裏には「能力の偏り」があるということ。発達障害者の中には、非常に優れた記憶力や、驚くほどの集中力、細部への鋭敏な感受性を持つ人も多い。だが、社会は「平均的に何でもそこそこできる人」に向けて最適化されている。その結果、突出した能力よりも、“できないこと”が目立ってしまう。欠けているギアばかりが取り上げられ、噛み合わない歯車の音が日常のノイズになる。
「努力不足」のラベルが貼られるという苦しさ
発達障害者が直面する最大の壁のひとつは、社会がそれを「性格」や「努力不足」として捉えがちであるという点だ。これはなかなか厄介な問題だ。たとえば、スケジュール管理ができない人がいたとする。それを「ルーズな人」「だらしない人」と見るか、「実行機能に困難を抱えている人」と見るかで、対応はまったく変わる。
だが、現実には前者の視点が優勢だ。「もっと頑張れば」「気をつければいいだけ」と言われる。そう言われ続けた結果、本人の中にも「自分は怠け者なのかもしれない」という内なる否定が育ってしまう。自己評価の低下、二次障害(うつ、不安障害など)の発症。こうして、「適応の困難さ」は、やがて「生きることそのものの困難さ」へと移行していく。
「わかってもらえない」日常の孤独
発達障害者にとってのしんどさは、単なる機能上の困難だけではない。それよりも深刻なのは、「この困難が誰にも伝わらない」という孤独感だ。
たとえば、あるASD(自閉スペクトラム症)の当事者はこう語っていた。「相手の気持ちを想像することが難しい。でも、傷つけたいわけじゃない。ただ、言葉がそのままストレートに響いてくるだけ」。そんな認知の仕方は、多くの人にとっては理解の外にある。
「言えばわかる」とは限らないのだ。逆に、「言っても、伝わらない」。そういう状況が続くと、人は次第に沈黙を選ぶようになる。自分を語らないようになり、表情を閉ざし、距離を取る。その背景には、「伝えようとする努力すら、自分の負担になる」という絶望がある。
「多様性」の言葉の、その先へ
だからといって、社会を糾弾しても仕方ないのかもしれない。社会とは、必ずしも「誰かのため」に作られてきたわけではなく、「多数派がなんとなくやりやすい」ように自然と形作られてきた集合的慣習にすぎない。そこに少数派が適応できないのは、ある意味では当然のことだ。
だが、だからこそ、変えていかなければならない。
今、「神経多様性(Neurodiversity)」という考え方が少しずつ広がりつつある。発達障害を“障害”ではなく、“脳の多様なあり方”として肯定的に捉えようというムーブメントだ。それは、欠けたものを補う発想ではなく、異なるギアのままで生きやすくする社会構造を目指すという発想でもある。
もちろん、まだ理想論だし、現実は追いついていない。だが、この社会が「すべての人にとって快適である必要はない」と考えるのであれば、それはもう“社会”ではなく、“選抜された者たちの集合”にすぎないのではないか。
終わりに:ギアは噛み合わなくても、動ける世界へ
発達障害の生きづらさとは、単なる「やりにくさ」の問題ではない。それは、「合っていない道具で、合っていない場所に、合っていない方法で、なんとか居場所を作ろうとする」その果ての疲労感なのだ。
必要なのは、ギアが全部ぴったり噛み合うことではない。多少ずれていても、動ける設計。違う回転数でも、共に回る工夫。そのための余白を、社会の側が持てるかどうかが問われている。
発達障害を抱える誰かが、明日も変わらず出勤している。それは、本人の努力や根性だけではなく、「どうにか誤魔化しながら、見えない戦いを続けている」という現実の上に成り立っている。
だから、少しだけ想像してみてほしい。
あなたの隣にいる誰かが、「わかりやすい困難」ではなく、「伝えにくい不全感」と毎日を共にしているかもしれない、ということを。
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