
「障害者雇用だから、理解がある職場ですよ」
その言葉を信じた俺が、いちばん無知だった。
1|「ここなら大丈夫」って言葉に、すがってしまった
もう、健常者として働くのは無理だと思った。
指示を一度で理解できない。優先順位がわからない。周囲の会話に入れない。仕事のスピードが遅い。叱られるたびに自信をなくし、追い詰められて辞めてきた職場が、すでに両手でも足りないくらいある。
そんなときに見つけた、「障害者雇用」という言葉。
“特性への理解がある”“働きやすい環境が整っている”“一人ひとりに合わせた配慮”
求人票に並んだきれいな言葉に、気がついたら期待してた。
「ここなら大丈夫かも」って。あのときの俺は、まだ社会に救いがあると思ってたんだ。
2|配慮は、あるにはある。でも“使わせてくれない”
実際、面接では特性についても聞いてくれた。
「苦手なことがあれば、遠慮なく教えてくださいね」って。
俺は、苦手なことをがんばって伝えた。「マルチタスクが苦手です」「急な予定変更が怖いです」「曖昧な指示がわかりません」って。
でもいざ働き始めると、現場には“空気”がある。
たとえば「体調悪いときは無理しないでくださいね」と言いながら、休むと「また?」って目をされる。
「苦手な作業は避けてくださいね」と言いながら、避けようとすると「それくらいはやってもらわないと」と圧をかけられる。
配慮は、ある。書面上はね。
でもそれを“実際に使った瞬間”、空気が変わる。
つまり、配慮は「ありますよ」と言うための飾りであって、俺たちが“助かるための仕組み”じゃない。
3|「やさしい言葉」は、無関心の裏返しだった
障害者雇用の現場は、たしかに怒鳴る人はいない。
でも、そのぶん“無関心”がある。
一人で困ってても誰も気づかない。声をかけても、「様子見ましょう」で終わる。SOSを出しても、「それは自分で考えたほうがいいですよ」と返される。
たしかに、怒られたりはしない。でも、助けてももらえない。
俺たちの「しんどい」「苦しい」は、すべて“自己解決前提”で放置される。
「ここは配慮のある職場だから、無理しなくていいよ」って、優しい言葉の裏にあるのは、「でも自分の責任でね」って冷たさなんだ。
“理解がある”って言葉が、これほど空虚に聞こえたのは初めてだった。
4|「障害者雇用=優しい世界」は、働く前の幻想だった
気づくと、俺はまた同じことをしていた。
自分の特性を責めていた。
できない自分を恥じていた。
配慮があるはずの職場で、「なんで俺はちゃんと働けないんだ」って、自分を壊し始めていた。
支援機関の人に話しても、「でも、配慮されてますよね?」って言われた。
配慮が“あることになっている”と、どれだけ苦しくても、「もう無理です」と言えない空気になる。
制度的には守られてる。でも、心はどんどん削れていく。
“障害者雇用=優しい世界”という幻想は、現場に入った瞬間に砕けた。
配慮はあっても、それを受け取れる構造がない。
“理解がある”という看板の下で、理解されないまま潰れていく。
それが、俺が見た障害者雇用の“現実”だった。
5|理解じゃなくて、都合のいい“免罪符”だった
結局、障害者雇用って、企業が「採用しました」と言うための免罪符なんじゃないかと思う。
合理的配慮を「したことにする」ためのアリバイ。
障害者雇用率を満たして、「うちは多様性を大事にしています」と言えるための数字。
そこで働く俺たちが、生きやすくなるかどうかなんて、二の次なんだ。
もっというと、「理解しよう」とすら、されていない。
企業にとっては、「問題を起こさず、静かに、無理せず働いてくれればいい」。
その裏で、俺たちが何を飲み込んで、何をあきらめて、何を失ってるかなんて、きっと誰も興味ない。
「障害者雇用なら、安心ですよ」って言葉が、いちばん人を殺すかもしれない。
本当の地獄は、「配慮があるのに苦しい」って状況なんだ。
誰にも説明できない。誰にも理解されない。
だって、もう“助かってることになってる”から。
そこに、俺たちの居場所はなかった。
最初から最後まで、俺の存在は、「制度上、必要とされた」だけだった。

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