「自己責任」という名の神様に祈ってろ

看護

【1】自己責任という便利な武器

自己責任、甘えるな、努力不足。この三つの呪文さえ唱えておけば、大抵のことは片付く。都合の悪い現実も、面倒な人間関係も、誰かの不幸すらも、「お前のせいだ」と言って切って捨てられるからな。

この国では、生きづらさの大半が“個人の資質”に帰着する。親が毒でも、病気でも、障害があっても、職場がブラックでも、「でもそれって、甘えじゃない?」「努力すればなんとかなったよね?」「結局、自己責任でしょ?」と口を揃えて言ってくる。

何か問題が起きても、社会は無関係のふりができる。なぜなら「お前が悪い」で完結するから。それが一番楽で、安全で、思考停止できる。


【2】俺の努力はいつも「足りない」と言われた

俺は昔から「要領が悪い」と言われ続けてきた。空気も読めないし、すぐテンパる。就活では「コミュ力が足りない」、職場では「自己判断ができない」、最終的には「君、ちょっと甘えてるよね」と言われた。

苦手なことも、苦しいことも、できるようになろうと努力した。でも全部が報われたわけじゃない。

それでも結果が出なければ「努力不足」と片づけられる。努力してもダメだったことを話せば、「そもそも甘えてるからだ」と返ってくる。

SNSで誰かが「死にたい」と呟けば、「そんな暇があるなら努力しろ」って誰かが言う。助けを求める行為すら“甘え”にされるこの空気。

俺も、たしかにそれに飲まれて、自分を責めて生きてきた。


【3】「報われた人間」の声がデカすぎる

「努力すればなんとかなる」って、どの口が言ってんだよと思う。たまたま親ガチャで当たりを引き、地元の進学校に通い、いい企業に入り、運も環境も味方したやつらが、自分の成功を“努力の証”にすり替えてる。

でもそれ、お前の実力じゃなくて「運が悪くなかった」ってだけだろ。

そして、そういう人間が、「自己責任」を他人に向けて言いたがる。自分が落ちる側に立ったことがないから、想像力が働かないんだ。

そういう奴ほど、落ちた人間を見下す。「お前のせいだ」って。実際には、誰だって崩れる可能性はあるのに。


【4】この空気のせいで、みんな黙って死んでいく

自己責任って言葉が市民権を得てから、誰もが静かに死んでいくようになった。声を上げれば「甘えるな」と言われ、苦しいと言えば「努力不足」と返される。

そんな状況で誰が助けを求められるんだ? だから俺も、なるべく黙って生きてきた。目立たず、迷惑かけず、黙々と働いて、心だけが腐っていった。

でもある日ふと思った。これ、全部俺のせいなのか? 本当にそうなのか? そう考えて、ようやく少しだけ、自分を責める手を止めることができた。

全部が自己責任なわけない。甘えは悪じゃない。努力不足と決めつけられる筋合いもない。そう思えるまでに、俺は30年かかった。


【5】これは俺なりのささやかな反撃だ

自己責任って言葉は、自分が自分に言うなら意味がある。でも他人に向けた瞬間、それはただの暴力になる。

努力しても報われないことはあるし、甘えながらでも生きていい。誰かに頼っても、逃げても、助けを求めても、それでいい。それが人間ってもんだ。

俺はいまだに何者でもない。非正規で、将来も不安で、明日も眠れないかもしれない。

それでも、「全部自分のせい」とは、もう思わない。誰かに踏みつけられながら「努力不足です」と頭を下げるのは、もうやめにする。

それが、俺にできる、ささやかな反撃だ。

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